ペルー福島県人会創立100周年記念式典にあたり,ご挨拶を申しあげることができますこと,大変光栄に存じます。
先日,福島県人ペルー移住100周年記念の際に刊行された記念誌を拝読しました。 ペルーに移住した福島県人の皆さんが,幾多の苦難を乗り越え,克服したこと,また,皆さんの生活や行動が意欲にあふれ,大変活発であることが分かりました。
かつて日本から多くの移民が新世界に渡りました。 概して西日本からの移民が多いといわれる中,福島県人はペルーでもそのほかの国でも数が多いようです。
それは何故なのか? 正確な答えを知ることは難しいと思いますが,私は、幕末における会津藩が果たした役割が大きく関係していると思っています。
福島県は,気候風土など多くが異なる,浜通り,中通り,会津の3つの地域があります。 ペルーと同じく多様性を持つ福島県と会津藩を単純に同一視することはできないでしょう。 しかし、幕末において、会津はこの地域の盟主というべき存在でした。
会津藩の始祖と仰がれる保科正之(ほしな・まさゆき)は,3代将軍・徳川家光の弟であり,家光の死後,幼い将軍の補佐役として活躍しました。 名君であり,徳川本家を守ることを常に第一と考えていました。 この教えを守って,幕末の混乱の中,京都所司代として新撰組とともに,最後まで幕府を守る立場を貫いたのが,松平容保(まつだいら・かたもり)でした。
会津は白虎隊が有名です。 最後まで明治新政府軍に敵対し,会津戦争を戦い敗北しました。 このため,福島県は明治政府から暖かく遇されることはなかったと思います。
幕末において,会津藩士の優秀さは有名でした。 これに拮抗していたのは薩摩藩だけと言われていました。 人材は豊富でしたが,活躍する場が与えられない。 こうした環境が,福島県人が多く,海外に活躍の場を求めることにつながったのではないかと思います。
10月26日,私は,マチュピチュ遺跡で行われた姉妹都市締結式に参加し,挨拶する機会を得ました。
マチュピチュ村が初めての姉妹都市として選んだ交流相手は,福島県大玉村です。 大玉村出身の福島県人である野内与吉(のうち・よきち)さんが,マチュピチュにホテルを建設して観光振興に力を尽くし,1940年代には行政の責任者として村長を務めたことが,姉妹都市締結が出来た大きな理由です。
今日,日本とペルーの友好関係は深く,盤石の関係であると思います。
それは,ペルー福島県人会を始め日系人の皆さんの活躍が,ペルー社会に高く評価され,温かく受け入れられているからこそであると思います。
まだ,そこまで至っていなかった1930年代40年代において,ペルーの地域社会から深く尊敬される野内与吉さんという日本人がいたことを胸に刻みたいと思います。 今日なお,ペルーで高い評価を保ち続ける先駆移住者がおられることは,福島県人,ペルーの日系社会,そして広く日本の誇りです。
本日の記念式典に出席されている福島県庁の皆様には,ペルーにおける福島県人会の活躍の様子を,是非,内堀福島県知事はもとより,県議会,福島県民の皆様に御報告いただけるよう,お願いしたいと思います。
最後に,福島の魂を受け継ぐペルー福島県人会の皆様のますますの発展,ご活躍をお祈り申し上げます。
ありがとうございました。