本日,ペルー広島県人会創立60周年記念式典にあたり、ご挨拶を申しあげることができますこと、大変光栄に存じます。
広島県は多くの海外移民を輩出している県です。 日本とハワイとの協約に基づく移民として,ハワイに多くの広島県人が渡ったのが始まりです。
私は,以前,ハワイでの「日本語としての標準語」は「ヒロシマ弁じゃ」という話を広島県内で聞いて驚いたことがあります。 多くの方々が移住したというだけではなく、現在の広島県民も、その事実をよく知っておられるのだと思います。
アメリカ合衆国が日本からの移住を制限した後には、多くの広島県人が南米へ旅立ちました。
移住の始まりから1世紀以上時がたち、多くの広島県人をはじめとして、日系のみなさんがペルーで大活躍されておられることを,心からお祝いしたいと思います。
恐縮ですが,個人的なことを申し上げます。 私は,4年4か月,広島県庁で勤務しました。 当時,知事や県議会議長は,機会をとらえて北米と南米の各地にある広島県人会の周年行事に出席されていました。 私は,ハワイとブラジルに随行しました。とても大変でした。当時とは立場が変わり,知事及び議長をはじめとする訪問団をお迎えすることとなりました。感慨深いものがあります。楽でもあります。
広島県及び議会訪問団の皆様には,ペルー広島県人会の皆さんをはじめとする日系の方々のこれまでの歴史の一部をお伝えしたいと思います。
ペルーでは,第二次世界大戦前に排日暴動があり,当時の政府により財産没収が行われ、一部の指導層がアメリカ合衆国の強制収容所へ移送されるなど,日系の方々は極めて厳しい体験をされてこられました。 しかし、 ペルーの日系人社会は,ララ物資などを通じて戦後荒廃した故郷への支援も行ったのです。
当時と今では状況は全く違っています。今日,ペルーは大変な親日国です。日本とペルーとは強固な友好関係で結ばれています。
広島県人会をはじめとする日系の皆様は、ペルー社会に温かく受け入れられ、尊敬されている存在です。日系の皆さんの日々の努力の積み重ねがペルーを大きく変えてきたのだと思います。日系は、ペルーの市民であると同時に日本の心を持った存在であり、日本とペルーを強くつなぐ架け橋です。
今回の広島県人会創立60周年を契機として、ペルー広島県人会と広島県の皆様との交流が、様々なレベルで、とりわけ若い世代によるふれあいを積極的に行うことによって、より一層盛んになっていくことを心から祈念いたします。
ありがとうございました。