APJ主催ペルー日本人移住118年周年及び日秘友好の日制定28周年記念式典 【日系子弟代表挨拶:ババ・ヒデミさん】
平成29年4月19日
平成29年4月3日(月)18:30~ 於:APJ大ホール
79年前の1938年に沖縄の伊是名(いぜな)というところから,私の曾々おじいちゃんと曾々おばあちゃんは,船でペルーに渡ってきました。船に乗って数日経ったとき,とても悲しい出来事がありました。それは,曾々おばあちゃんが病気で亡くなってしまったのです。
だから,当時,幼かった曾おじいちゃんのシマブクロ・セイケイは,お母さんの顔を覚えていません。悲しいことに,当時,船で亡くなった方達は,海に捨てられる(水葬)のが普通でした。でも,曾々おばあちゃんは幸運なことに,立ち寄ったハワイに埋葬されたそうです。
この話は,私の家族に代々伝わっていますが,未だかつて,誰もお墓参りに行ったことがありません。
私は,いつか,ハワイに行って,曾々おばあちゃんのお墓を探し,手を合わせたいと思っています。
そんな深い悲しみを乗り越えながら,3か月の長旅でやっとペルーのカヤオ港に着きました。目的地はリマ州の北部にあるワラルという町でした。そこでは,日本の生活と同様に農業の仕事をしていました。そして,何年か後に,一生懸命貯めたお金でボデガ(雑貨屋)の経営を始めました。
そのボデガでは,日用生活の製品を売っていました。そして,曾おじいちゃんのシマブクロ・セイケイは結婚し,子供を5人もうけました。全員,男の子です。
その兄弟の二番目ビクトル・ヒデトは,私のおじいちゃんです。その私のおじいちゃんのヒクトル・ヒデトも,成人になって子供を5人もうけました。不思議なことに,今度は,全員女の子でした。
その姉妹の二番目が私の母リタです。そして,母から生まれたのが私です。ヒデミと申します。日系四世です。ペルーの生活では,ほとんど日本語を話しませんが,習慣になっている言葉,「おはよ」とか,「いただきまーす」,「ご飯」,「お金」などは使っています。お盆の時期は,ジューシーやチマキなどを食べています。私はそれが大好きです。そしてペルーの生活が大好きです。
私は,日本で生まれて1歳の時にペルーに来ました。今,中学三年生です。14歳です。いつの日か,私が住んでいた日本へ行って,日本全国を旅行するのが私の夢です。
ありがとうございました。
だから,当時,幼かった曾おじいちゃんのシマブクロ・セイケイは,お母さんの顔を覚えていません。悲しいことに,当時,船で亡くなった方達は,海に捨てられる(水葬)のが普通でした。でも,曾々おばあちゃんは幸運なことに,立ち寄ったハワイに埋葬されたそうです。
この話は,私の家族に代々伝わっていますが,未だかつて,誰もお墓参りに行ったことがありません。
私は,いつか,ハワイに行って,曾々おばあちゃんのお墓を探し,手を合わせたいと思っています。
そんな深い悲しみを乗り越えながら,3か月の長旅でやっとペルーのカヤオ港に着きました。目的地はリマ州の北部にあるワラルという町でした。そこでは,日本の生活と同様に農業の仕事をしていました。そして,何年か後に,一生懸命貯めたお金でボデガ(雑貨屋)の経営を始めました。
そのボデガでは,日用生活の製品を売っていました。そして,曾おじいちゃんのシマブクロ・セイケイは結婚し,子供を5人もうけました。全員,男の子です。
その兄弟の二番目ビクトル・ヒデトは,私のおじいちゃんです。その私のおじいちゃんのヒクトル・ヒデトも,成人になって子供を5人もうけました。不思議なことに,今度は,全員女の子でした。
その姉妹の二番目が私の母リタです。そして,母から生まれたのが私です。ヒデミと申します。日系四世です。ペルーの生活では,ほとんど日本語を話しませんが,習慣になっている言葉,「おはよ」とか,「いただきまーす」,「ご飯」,「お金」などは使っています。お盆の時期は,ジューシーやチマキなどを食べています。私はそれが大好きです。そしてペルーの生活が大好きです。
私は,日本で生まれて1歳の時にペルーに来ました。今,中学三年生です。14歳です。いつの日か,私が住んでいた日本へ行って,日本全国を旅行するのが私の夢です。
ありがとうございました。